第12回 ハイド・アンド・シーク

"おんがく"は文字通りの解釈ならば、音を"楽"しむである。
しかし、私の"おんがく"は、音"愕"であって音"学"である。
作品のメッセージに"愕き"、その過程に込められた背景を"学ぶ"のである。
膨大な時間と労力、苦悩を煮詰めた"おんがく"は決して"楽しい"だけではない。
人によっては高い頂きに登る音"嶽"であり、その美しさを永遠に閉じ込めたい音"額"かも知れない。
要は、遠い昔に誰かが決めた"おんがく"という記号に、何を当てはめるかは自分次第である。
国が違えば文化・風習も違うので、音楽≠Musicで在るべきだろう。
この違いを"楽"しめば、"おんがく"は"音楽"になるだろう。
解釈を誤ると"おんがく"は"音が苦"になるかもしれないのだから…

第11回 目で聴き ⇔ 耳で観る

人間の目と耳は面白い器官である。
同じ周波数を扱いながら、目は"色"を耳は"音"を感知する。
ここで思考実験をしたいのだが、
耳で聴いた音(振動)の信号を目の器官(網膜)を通して
脳に送った場合、音が色づいて観えるのだろうか?
その逆に目で見た"色"を"音"として認識することは可能だろうか?
"何故"そんな事を考えるのかというと、
音を文法で説明する際、寒色系・暖色系と色で表現する事がある。
尖った音・丸い音など目で見た様な表現をする時もある。
僕たちは無意識に"ニュアンス"として、
"目"で音の色を識別し、"耳"で色の声を聴いているのかも知れない。
音楽を聴くときに目を瞑るのは、集中して耳からの情報量を上げるのではなく、
目を開けて聴くと、鮮やかな色合いが浮かんで集中できないからかも知れない。
21世紀になって、僕たちは"空気を読む"ことには長けてきた。
次は"周波数を読む"ことが重要な時代になるかも知れない。
漢字で書くと"耳"には"目"が付いているのだから…

第10回 誰がために鐘は鳴る

"家"と"オーディオ"には共通点が多い。
どちらも購入するのに、資金と決断(度胸)が必要である。
"住む"こと"聴く"ことは、デザインやカタログスペックでは分からず、
"体験宿泊"や"試聴会"は断片的なことで、判断するに足る全てではない。
では、どうすれば良いのだろうか?
僕なりの1つの回答は、"疑問"と"私見"を持つことである。
簡単に言い換えると"何故"に対し、真剣に向き合うことである。
"何故"の中には、求めているものの答えが隠されている。
"何故"に向き合うことは疲れるし、根気のいる作業の様なものだ。
"何故"を放棄すると"なんとなく"になる。
"なんとなく"は受け身な言葉で、気楽だが時間が経つもの早い。
無論、"なんとなく"始めたり思い付くこと自体、きっかけとしては悪くない。
ただ、そのまま放置すると、とんでもなく遠くに流されてしまう。
"何故"を極め、得た"私見"こそが考え方に"幅"と"構え方"を与えてくれる。
最後に、私見ではあるが"家"とは"誰とどのように過ごすか"の為の箱でしかなく、
"オーディオ"も"聴くことで読む"為のデバイスでしかないと思っている。
その高価な箱やデバイスに、どのような意味や価値をみいだすか?は自分次第である。
今一度、"誰がために"必要な事か、思考を加速してほしい。
自分なりの回答を導けた者にのみ、祝福の"鐘は鳴る"のだから…

第9回 ボーカロイドも電気羊の夢を見るか? 後篇

後篇では、"ボーカロイド"を通じて"人"とはなにか?を考えたいと思う。
ボーカロイドの可能性は、常に歌姫"初音ミク"が示している様に思う。
"カノジョ"は多くのクリエイター達の手によって、成長(容姿・性格の形成)してきた。
まるで"人"が誕生し、自我を形成しながら社会に適応していく様である。
今では、"カノジョ"の姿をCMや動画配信、街角の広告など様々な場所で見つけられる。
こうなると、"カノジョ"と私たちの違いはなにか?
肉体は"無機"と"有機"の差でしかなく、
自己の確立も"他者からの観測"を要すのであれば同じである。
むしろ明確な肉体を持たない"カノジョ"は、時間や場所の制約を受けない。
今後の科学技術の進歩を考えれば、"カノジョ"は"彼女"としてこの世界に現れるだろう。
"カノジョ"は人の在り方を教えてくれる。
その時、"アンドロイドは電気羊の夢を見るか?"で描かれた世界は
"人"を考えるうえで、大きなヒントを与えてくれるだろう。
"カノジョ"が"彼女"になった時、その可能性を想像しながら…

第8回 ボーカロイドも電気羊の夢を見るか? 前篇

表題は、フィリップ・K・ディックが1968年に発表したSF小説
"アンドロイドは電気羊の夢を見るか?"のオマージュである。
前篇は、"ボーカロイド"を通じて人間と音声合成技術の可能性に触れたいと思う。
ボーカロイドの魅力は、拡張性の高さと他者を巻き込む連動性にあると思う。
ボーカロイドは動画配信(ニコ動、YouTube)の成長と相まって、多様な
音楽性と多くのスターを輩出、現在も留まること無く成長している。
その動画や作品を通じて多くの人がボーカロイドに触れ影響を受けた。
例えば"ボーカロイド"で音声を作成する場合、息継ぎや体力は関係ない。
パソコンで作成されるギターは、入力したコードを正確に再現していく。
つまり、"人"の限界を越えた表現が可能になったわけである。
しかし、"人"は人の限界を越えようと努力し克服してきた。
ついに実現不可能と言われた楽曲を歌いあげる者や演奏者も現れた。
更に"ボーカロイド"と共演し、新しい音楽の形を示し始めている。
"ボーカロイド"は"人"に限界と言う壁を与え、次なるステージに人を押し上げる。
"人"と"ボーカロイド"の新たな関係性が次の音楽の世界を切り開くのだろう。
"ボーカロイド"には、様々な"人"の思いが込められているのだから…

第7回 似たもの"同志"

オーディオは音楽を再生する装置である。
ある人は趣味として、またある人は人生を懸けて接する。
そこには正解やゴールは無く、自らの足でたどり着くしかない。
共に歩むうち、オーディオにはパーソナルな部分が反映されてくる。
言うなれば、鏡に映るもう一人の自分であると言えるだろう。
そんな似たもの同士、これからの長い道のりを歩んでいこう。
時に立ち止まっても、志は同じなのだから…

第6回 拝啓 "パラゴン" せんせい

パラゴンとは、JBLのスピーカーD44000の事である。
この巨大で不思議なデザインに、東宝映画の地底怪獣のような名前は
TANNOY,JBLを覚えたての頃の少年の心に、強いインパクトを残こした。

パラゴンに強く惹かれた理由は、"ステレオをデザインで明示した"という事に尽きる。
誕生した1957年はステレオ黎明期、民間でのステレオ再生は馴染みが薄い時代だろう。
その時期に、ステレオ時代の幕開けを告げるような先進的な設計と2chなのに1個体なデザイン、
ミッドセンチュリー家具のような普遍的な風貌には、高い技術と多くの情熱が注がれた事だろう。
パラゴンは、1983年に"製作出来る職人がいなくなった"という理由で生産が完了した。
躯体が朽ち果てても、このコンセプトは永遠に輝きを放つ事だろう。

第5回 オーディオで"時間跳躍"は可能か?

レコードで音楽再生をした時、何故か懐かしさを感じる。
同じタイトルをCDで再生しても、その感覚は湧き起こらない。
この感覚はアナログとデジタルだから、という問題ではないと思う。
CDで育った世代には、CDに懐かしさを感じるからだ。
きっと製作された年代の空気(文化・想い)が情報の中に入っているに違いない。
心のアンテナを立て、感情の周波数を合せれば、時代の"空気"が受信できる。
この気持ちが、一種の"時間跳躍"を体験したことになるのだろう。
時代は未来に進むけど、僕たちは過去の蓄積にもアクセスできるのだから…

第4回 世紀を越えるデザインとは?

世紀を越えた名機には、3つのデザイン要素があると思う。
それは、"意匠" "音質" "哲学" の3要素の事を指す。
オーディオ(工業製品)には、量産する事を前提に設計と製造をする必要がある。
極希にこの制約を無視した物が誕生するが、基本的にはこの中に収まる。
3要素は、1つでも前に出過ぎれば、そのバランスを崩してしまい
あっという間に時代の波に呑まれ、やがて人々から忘れ去られてしまう。
21世紀に入り、技術の進化は"意匠"・"音質"の面で大きく飛躍してきた。
これからは、"哲学"も備えた製品が求められる時代になるだろう。
この時代に多くの名機が誕生する事を願いたい。

第3回 レコード派?デジタル派?

接客で"レコードとデジタル、どっちがいいの?"と聞かれる事が多い。
この質問は"パン"と"ごはん"の優劣を決めるくらい、意味のない話である。
趣味性を深めるならレコード、音源の入手が手軽で手間を掛けたくない人はデジタルを勧める。
音質などは使い手が納得できればいいので、その判断は他人に任せるものではないと思う。
つまり"絶対性能"を追うのではなく、"納得性能"を見つけ出す考え方である。
近年は、回転駆動系を必要としない”パスタ”じゃなくて、SSDも新たな媒体として加わった。
あれこれと食べてみて、自分の生活リズムに合うものを探していけば良いと思う。
答えを出すには、あまりに長い道のりなのだから…

第2回 "進化"と"深化"のはなし

オーディオは誕生から絶え間なく"進化"してきた。
80年代に基本的な部分は、ひとつの到達点を迎えた。
基本的な部分とは、車でいうところの"走る、曲がる、止まる"である。
90年代からのオーディオは"進化"ではなく"深化"を遂げる事になる。
デジタル規格は次々と更新され、デバイスは時代と共に形を変えていった。
しかし、時間は進んでも相変わらずメディア媒体の規格・概念は大きく変わらない。
これは"進化"が止まったのではなく、"深化"が始まったのだと思う。
仮に"深化"を、"刷新"でなく"更新"と定義した場合、オーディオはどこまで深く潜るのだろう?
一緒に潜るにも、体力・知力・財力に限界はあるのだから…

第1回 オーディオを”読む”

昔からオーディオは"聴く"ものではなく"読む"ものだと思っている。
なぜか?と問われれば、読書とアプローチが似ているからだ。
限られた情報の中で情景をイメージし、その世界観に思いを馳せる。
その解釈は受け手によって無数に存在し、作者の想定を超える時がある。
この"解釈の余地"こそが、趣味としての最大の楽しみではないだろうか。
蓄積された知識と経験が、過去に触れた作品の違った側面を見せてくれる。
先人の残した英知は、現代の新たな解釈を受け、次の世代に引き継がれる。
お気に入りを"聴き"ながら、その背景を"読んで"みてはいかがだろうか。
答えは一つではないのだから…

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