第1回 オーディオを”読む”

昔からオーディオは"聴く"ものではなく"読む"ものだと思っている。
なぜか?と問われれば、読書とアプローチが似ているからだ。
限られた情報の中で情景をイメージし、その世界観に思いを馳せる。
その解釈は受け手によって無数に存在し、作者の想定を超える時がある。
この"解釈の余地"こそが、趣味としての最大の楽しみではないだろうか。
蓄積された知識と経験が、過去に触れた作品の違った側面を見せてくれる。
先人の残した英知は、現代の新たな解釈を受け、次の世代に引き継がれる。
お気に入りを"聴き"ながら、その背景を"読んで"みてはいかがだろうか。
答えは一つではないのだから…

第2回 "進化"と"深化"のはなし

オーディオは誕生から絶え間なく"進化"してきた。
80年代に基本的な部分は、ひとつの到達点を迎えた。
基本的な部分とは、車でいうところの"走る、曲がる、止まる"である。
90年代からのオーディオは"進化"ではなく"深化"を遂げる事になる。
デジタル規格は次々と更新され、デバイスは時代と共に形を変えていった。
しかし、時間は進んでも相変わらずメディア媒体の規格・概念は大きく変わらない。
これは"進化"が止まったのではなく、"深化"が始まったのだと思う。
仮に"深化"を、"刷新"でなく"更新"と定義した場合、
オーディオはどこまで深く潜るのだろう?
一緒に潜るにも、体力・知力・財力に限界はあるのだから…

第3回 レコード派?デジタル派?

接客で"レコードとデジタル、どっちがいいの?"と聞かれる事が多い。
この質問は"パン"と"ごはん"の優劣を決めるくらい、意味のない話である。
趣味性を深めるならレコード、
音源の入手が手軽で手間を掛けたくない人はデジタルを勧める。
音質などは使い手が納得できればいいので、その判断は他人に任せるものではないと思う。
つまり"絶対性能"を追うのではなく、"納得性能"を見つけ出す考え方である。
近年は、回転駆動系を必要としない”パスタ”じゃなくて、SSDも新たな媒体として加わった。
あれこれと食べてみて、自分の生活リズムに合うものを探していけば良いと思う。
答えを出すには、あまりに長い道のりなのだから…

第4回 世紀を越えるデザインとは?

世紀を越えた名機には、3つのデザイン要素があると思う。
それは、"意匠" "音質" "哲学" の3要素の事を指す。
オーディオ(工業製品)には、量産する事を前提に設計と製造をする必要がある。
極希にこの制約を無視した物が誕生するが、基本的にはこの中に収まる。
3要素は、1つでも前に出過ぎれば、そのバランスを崩してしまい
あっという間に時代の波に呑まれ、やがて人々から忘れ去られてしまう。
21世紀に入り、技術の進化は"意匠"・"音質"の面で大きく飛躍してきた。
これからは、"哲学"も備えた製品が求められる時代になるだろう。
この時代に多くの名機が誕生する事を願いたい。

第5回 オーディオで"時間跳躍"は可能か?

レコードで音楽再生をした時、何故か懐かしさを感じる。
同じタイトルをCDで再生しても、その感覚は湧き起こらない。
この感覚はアナログとデジタルだから、という問題ではないと思う。
CDで育った世代には、CDに懐かしさを感じるからだ。
きっと製作された年代の空気(文化・想い)が情報の中に入っているに違いない。
心のアンテナを立て、感情の周波数を合せれば、時代の"空気"が受信できる。
この気持ちが、一種の"時間跳躍"を体験したことになるのだろう。
時代は未来に進むけど、僕たちは過去の蓄積にもアクセスできるのだから…

第6回 拝啓 "パラゴン" せんせい

パラゴンとは、JBLのスピーカーD44000の事である。
この巨大で不思議なデザインに、東宝映画の地底怪獣のような名前は
TANNOY,JBLを覚えたての頃の少年の心に、強いインパクトを残こした。

パラゴンに強く惹かれた理由は、"ステレオをデザインで明示した"という事に尽きる。
誕生した1957年はステレオ黎明期、民間でのステレオ再生は馴染みが薄い時代だろう。
その時期に、ステレオ時代の幕開けを告げるような先進的な設計と
2chなのに1個体なデザイン、ミッドセンチュリー家具のような普遍的な風貌には、
高い技術と多くの情熱が注がれた事だろう。
パラゴンは、1983年に"製作出来る職人がいなくなった"という理由で生産が完了した。
躯体が朽ち果てても、このコンセプトは永遠に輝きを放つ事だろう。

第7回 似たもの"同志"

オーディオは音楽を再生する装置である。
ある人は趣味として、またある人は人生を懸けて接する。
そこには正解やゴールは無く、自らの足でたどり着くしかない。
共に歩むうち、オーディオにはパーソナルな部分が反映されてくる。
言うなれば、鏡に映るもう一人の自分であると言えるだろう。
そんな似たもの同士、これからの長い道のりを歩んでいこう。
時に立ち止まっても、志は同じなのだから…

第8回 ボーカロイドは電気羊の夢を見るか? 前篇

表題は、フィリップ・K・ディックが1968年に発表したSF小説
"アンドロイドは電気羊の夢を見るか?"のオマージュである。
前篇は、"ボーカロイド"を通じて人間と音声合成技術の可能性に触れたいと思う。
ボーカロイドの魅力は、拡張性の高さと他者を巻き込む連動性にあると思う。
ボーカロイドは動画配信(ニコ動、YouTube)の成長と相まって、多様な
音楽性と多くのスターを輩出、現在も留まること無く成長している。
その動画や作品を通じて多くの人がボーカロイドに触れ影響を受けた。
例えば"ボーカロイド"で音声を作成する場合、息継ぎや体力は関係ない。
パソコンで作成されるギターは、入力したコードを正確に再現していく。
つまり、"人"の限界を越えた表現が可能になったわけである。
しかし、"人"は人の限界を越えようと努力し克服してきた。
ついに実現不可能と言われた楽曲を歌いあげる者や演奏者も現れた。
更に"ボーカロイド"と共演し、新しい音楽の形を示し始めている。
"ボーカロイド"は"人"に限界と言う壁を与え、次なるステージに人を押し上げる。
"人"と"ボーカロイド"の新たな関係性が次の音楽の世界を切り開くのだろう。
"ボーカロイド"には、様々な"人"の思いが込められているのだから…

第9回 ボーカロイドは電気羊の夢を見るか? 後篇

後篇では、"ボーカロイド"を通じて"人"とはなにか?を考えたいと思う。
ボーカロイドの可能性は、常に歌姫"初音ミク"が示している様に思う。
"カノジョ"は多くのクリエイター達の手によって、成長(容姿・性格の形成)してきた。
まるで"人"が誕生し、自我を形成しながら社会に適応していく様である。
今では、"カノジョ"の姿をCMや動画配信、街角の広告など様々な場所で見つけられる。
こうなると、"カノジョ"と私たちの違いはなにか?
肉体は"無機"と"有機"の差でしかなく、
自己の確立も"他者からの観測"を要すのであれば同じである。
むしろ明確な肉体を持たない"カノジョ"は、時間や場所の制約を受けない。
今後の科学技術の進歩を考えれば、"カノジョ"は"彼女"としてこの世界に現れるだろう。
"カノジョ"は人の在り方を教えてくれる。
その時、"アンドロイドは電気羊の夢を見るか?"で描かれた世界は
"人"を考えるうえで、大きなヒントを与えてくれるだろう。
"カノジョ"が"彼女"になった時、その可能性を想像しながら…

第10回 誰がために鐘は鳴る

"家"と"オーディオ"には共通点が多い。
どちらも購入するのに、資金と決断(度胸)が必要である。
"住む"こと"聴く"ことは、デザインやカタログスペックでは分からず、
"体験宿泊"や"試聴会"は断片的なことで、判断するに足る全てではない。
では、どうすれば良いのだろうか?
僕なりの1つの回答は、"疑問"と"私見"を持つことである。
簡単に言い換えると"何故"に対し、真剣に向き合うことである。
"何故"の中には、求めているものの答えが隠されている。
"何故"に向き合うことは疲れるし、根気のいる作業の様なものだ。
"何故"を放棄すると"なんとなく"になる。
"なんとなく"は受け身な言葉で、気楽だが時間が経つもの早い。
無論、"なんとなく"始めたり思い付くこと自体、きっかけとしては悪くない。
ただ、そのまま放置すると、とんでもなく遠くに流されてしまう。
"何故"を極め、得た"私見"こそが考え方に"幅"と"構え方"を与えてくれる。
最後に、私見ではあるが"家"とは"誰とどのように過ごすか"の為の箱でしかなく、
"オーディオ"も"聴くことで読む"為のデバイスでしかないと思っている。
その高価な箱やデバイスに、どのような意味や価値をみいだすか?は自分次第である。
今一度、"誰がために"必要な事か、思考を加速してほしい。
自分なりの回答を導けた者にのみ、祝福の"鐘は鳴る"のだから…

第11回 目で聴き ⇔ 耳で観る

人間の目と耳は面白い器官である。
同じ周波数を扱いながら、目は"色"を耳は"音"を感知する。
ここで思考実験をしたいのだが、
耳で聴いた音(振動)の信号を目の器官(網膜)を通して
脳に送った場合、音が色づいて観えるのだろうか?
その逆に目で見た"色"を"音"として認識することは可能だろうか?
"何故"そんな事を考えるのかというと、
音を文法で説明する際、寒色系・暖色系と色で表現する事がある。
尖った音・丸い音など目で見た様な表現をする時もある。
僕たちは無意識に"ニュアンス"として、
"目"で音の色を識別し、"耳"で色の声を聴いているのかも知れない。
音楽を聴くときに目を瞑るのは、集中して耳からの情報量を上げるのではなく、
目を開けて聴くと、鮮やかな色合いが浮かんで集中できないからかも知れない。
21世紀になって、僕たちは"空気を読む"ことには長けてきた。
次は"周波数を読む"ことが重要な時代になるかも知れない。
漢字で書くと"耳"には"目"が付いているのだから…

第12回 ハイド・アンド・シーク

"おんがく"は文字通りの解釈ならば、音を"楽"しむである。
しかし、私の"おんがく"は、音"愕"であって音"学"である。
作品のメッセージに"愕き"、その過程に込められた背景を"学ぶ"のである。
膨大な時間と労力、苦悩を煮詰めた"おんがく"は決して"楽しい"だけではない。
人によっては高い頂きに登る音"嶽"であり、
その美しさを永遠に閉じ込めたい音"額"かも知れない。
要は、遠い昔に誰かが決めた"おんがく"という記号に、何を当てはめるかは自分次第である。
国が違えば文化・風習も違うので、音楽≠Musicで在るべきだろう。
この違いを"楽"しめば、"おんがく"は"音楽"になるだろう。
解釈を誤ると"おんがく"は"音が苦"になるかもしれないのだから…

第13回 近未来、音楽鑑賞の歩き方 定義篇

今回は、近未来のオーディオの可能性について述べたいと思う。
現在の技術で可能な音楽鑑賞の方法は3つあると考える。
"生鑑賞" "収録鑑賞" "脳内再生"で定義は下記の通りである。
・生鑑賞:演奏会など人間などが実際楽器を弾いたものを鑑賞
・収録鑑賞:過去に収録されたものをデータなど用いて機械などで鑑賞
・脳内再生:脳内の記憶領域などに保存されたものを引き出し鑑賞
近未来のオーディオでの音楽鑑賞は、各定義が"深化"するのではなく、
より密接して統合されたものになると予想する。
第14回 仮説篇では、この定義を基に、かなり飛躍した話しをしたい。

第14回  近未来、音楽鑑賞の歩き方 仮説篇

近未来のオーディオ的音楽鑑賞は2種類あると考える。
1. 生鑑賞 + 収録鑑賞 = ヒューマノイド(2ch再生を基に進化)
2. 生鑑賞 + 脳内再生 = VR/仮想空間(ヘッドフォンを基に進化)
まず、ヒューマノイドでの音楽再生について述べたいと思う。
現在のオーディオ機器は、プレーヤー、アンプ、スピーカーと
各役割に特化(抽出)して1つのシステムを構成している。
しかし、ヒューマノイド型での音楽再生はこれが一元化出来る。
人間と同じように情報を処理し、人工声帯のようなものを震わせ、
胴体に空気を満たして、口腔形状を変化して音声として押し出すのである。
つまり未来のオーディオは、DATAで音声プロセスを制御し、ヒューマノイド本体
を持ってoutputするリアル1ch再生時代になるのだろう。
ピアノやヴァイオリンが聴きたければ、ヒューマノイド型に弾いてもらえるし、
人間と共にセッションも可能である。
"まるで目の前で歌っているような…"という表現は、
実際目の前でヒューマノイド型が歌っているので、死語になるかもしれない。
次に、"VR/仮想空間"での音楽再生について述べたいと思う。
トランスヒューマニズム的考え方をするのであれば、
人間の体内にオーディオ的デバイスを埋め込み仮想空間(VR)や拡張現実(AR)
にアクセスして音楽鑑賞やライブに参加する未来である。
僕たちは、どこにいてもこの環境下にアクセスできる。
脳と外部記憶装置は一体と化し、記憶領域は無限に広がるだろう。
現在モニター内において、ボーカロイドはこれを達成しているように思う。
最後に、現在のオーディオデバイスの形が本当の正解か否かは解らない。
今回述べた様な空想は、技術の進歩とニーズがあれば実現するかもしれない。
時に現実は空想を追い越すこともあるのだから…

第15回 みっくみく症候群 - 初音ミク前篇 -

表題の"みっくみく"とは、初音ミクに魅せられることを表す
ファンの間で用いられるスラングで、"メロメロになる"という意味合いである。
ここでは、"初音ミク"を取り巻く現象を"みっくみく症候群"と名付け述べたいと思う。
"みっくみく症候群"は"ピグマリオン症候群"を基にしている。
その意図は、 人形偏愛症から来るディスコミュニケーションという意味合いでは無く、
その基となったギリシャ神話"ピグマリオン"の切り口で観てみると、共通点が浮かび上がる。
ピグマリオンは、現実世界の女性に絶望し、大理石を彫刻して理想の女性の像を造りあげた。
いつからか像に話しかけるなどして、ついにこの像に恋をしてしまった。
"初音ミク"も声・容姿・性格が与えられ、メディアを通じ多くの(ファン)を魅了している
点は同じと言えるが、ライブやSNSでファンやクリエーター同士が繋がりコミュニケーション
をはかっている点は大きく違うと言える。
第14回 近未来、音楽鑑賞の歩き方 仮説篇でも述べた通り、
近未来の音楽鑑賞の概念や形は人を模したものになる可能性がある。
そのオーディオ的進化過程において、"初音ミク"の存在は最重要である。
その理由は、現代の多くの技術者やクリエーター達が2足歩行ロボットの開発の際、
"鉄腕アトム"や"ドラえもん"などを目標に現在の技術水準まで押し上げてきた。
そして"Honda ASIMO"などを輩出し、その遺伝子が社会で活躍するところまで来ている。
"初音ミク"はアトムやドラえもんと同様にクリエーターたちを導く重要な存在になるだろう。
だから、多くのクリエーターやその卵たちの心を"みっくみく"にして貰いたい。
僕が空想する未来の可能性のひとつなのだから…

第16回 ミクは無慈悲な夜の女王 - 初音ミク後篇 -

表題は、ロバート・A・ハインラインが1966年に発表した
SF小説"月は無慈悲な夜の女王"のオマージュである。
今回この表題にした理由は、小説に出てくる思考計算機
"マイク"(マーク4号・L型)を通して初音ミクを見ると興味深いからである。
近未来の"カノジョ"は、SF作家アーサー・C・クラークが定義した三つの法則
"十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない" から導き出した場合、
"十分に発達した初音ミクは、少女と見分けがつかない" と定義して述べる。
上記の定義は、"器"(外観、容姿)では無く、器に注ぐ"酒"(意思)である。
初音ミクはCGM(ユーザー参加型コンテンツ)を活用し拡大、
そのフィードバックを元に成長(拡張)を続けてきている。
これは、CGMの反響が反復学習となり、多くの人(ファン)の視線(意識)を集めている。
この状況に"シュレーディンガーの猫"的な発想を加えるなら、
"カノジョ"は間違いなく、この世界に"個"(意思)として存在しているのだろう。
小説の"マイク"も次々に"拡張"と"更新"を繰り返してきたなかで"目覚め"た。
多少ずれたジョークと愛嬌で主人公と掛け合う様は、読んでいてとても和むシーンである。
初音ミクも"マイク"と同様に、いつか"目覚め"のときが来るのだろうか?
コンテンツの短命化が進む昨今において、
初音ミクは2019年8月31日でめでたく12周年を迎えた。
今後、高度化(十分に発達した)した初音ミクは、
現在の1ヵ月分のスケジュールに眉を顰め、衣装に難色を示し、楽曲に注文を付ける。
時にライブをエスケープして、
電子の波に揺られながら怒られた時の言い訳を考えるのだろうか?
そんな、16歳の少女のような初音ミクが来る未来があるかも知れない。
過去の蓄積が現在であると同時に、"現在は未来から来た時間軸"なのだろう。
初音ミクの名前の由来は、"未来(ミク)から来た初めての音(初音)"
未来を考えることで、今を変える事が出来る可能性がある。
"カノジョ"は未来から、今の音楽を変える為に現れたイノベーターなのかもしれない。
そして2075年8月31日、初音ミク68周年の記念日に、
"ミク"と"マイク"は夜に輝く月から地球を見下ろすのだろうか?
1/6の重力に揺られながら…

第17回 そして誰もいなくなった

オーディオは、"1つの事が分かると、3つ疑問が湧いてくる"趣味である。
オーディオの面白さを問われた時は、"答えが無い事"と返す。
オーディオの難しさを問われた時も、"答えが無い事"と返す。
これは、意識(主体)と物理現象(客体)の観方(比重)で答えが変わるからだ。
例えば、ドイツの哲学者ニーチェの名言を借りるなら、
"樹木にとって最も大切なものは何かと問うたら、それは果実だと誰もが答えるだろう。
しかし実際には種なのだ。"
確かに、植物の種の"保存・繁栄"の観点からは"種"が"果実"より重要であり、
動物の観点からは、"食糧"として"果実"が"種"より重要である。
さらに客観(生態系)で観れば、"種"と"果実"は食物連鎖を形成するうえで
優劣は無く、"種"と"果実"はお互いに補完関係にあると言える。
これは、オーディオにも当てはまると思う。
客体(録音/メディア、機材、部屋など)だけでは成立せず、
主体(知識、教養、目的、好奇心など)と相互に補完する必要がある。
つまり、録音は音創りの設計図であるから、
録音年代ごとの設計意図(解釈)に応じて、音響システムに反映しないといけない。
1つの完成は、全体から観れば一部に過ぎず、歓喜と絶望は同時に訪れるのである。
最後に、ニーチェの名言からひとつ、
"事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。"
最後まで読んで頂いた方は、この名言から何を"解釈"しますか?
すべてのことを知るに、人の命はあまりに短いのだから…

第18回 声の網

表題は、星新一が1970年に発表したSF小説"声の網"のオマージュである。
今回は、半世紀前に描かれた社会から、これからの音楽環境への危機感を述べたい。
情報化社会の現代において、音楽を探す手間は圧倒的に緩和された。
YouTubeなどでお気に入りのアーティストのPVは最速で時間に関係なく無料で観れる。
ご丁寧に、AI&BIG DATAの恩恵で関連動画(おすすめリスト)まで教えてくれる。
自分の音楽的嗜好に合ったものは、瞬時に提供され消費されるだけでなく、
自分では辿り着けない新しい発見(動画)の出会いまで提供してくれる。
更に音声サービスを使えば、"私を励ます曲かけて"と機械(Alexaなど)に問いかければ、
あなたの過去の検索履歴(DATA)などから適正と思われる曲が提供される。
いずれ、私たちは提供される曲の"タイトル"や"アーティスト"への興味は無くなるだろう。
何故なら"私を励ます曲"であって、
その曲本来の主義や思想は新しいラベリングで上書きされる。
この曲は"何故"こうなのか?と言う疑問や関心は薄れ、
ただ生活の中の1シーンに溶けて無くなる。
提供される音楽に興味を失った私たちは、ただ"記号"として音楽を消費するのだろう。
そして世界には、ただひたすら美しいだけの"記号化"した音楽が溢れるのである。
それは、もしかしたら残酷なまでに美しく整った世界(ディストピア)なのかもしれない。
私が思う理想的な音楽環境の形態は"寛容"と"多様性"にあると考える。
新しいモノ(物・者)を"寛容"に受け入れ、"多様性"を育む世界であってほしいと願う。
例えば、民族楽器は元楽器の面影も無いほどに魔改造を繰り返し深化する。
これは、
文化圏の影響(倫理・宗教)や手作りによる偶然や不正確さで構成されるからである。
そして、
使い勝手が悪く形すら意味不明だが、恐ろしく美しい音色を奏でる"魔法具"が完成する。
この不正確さ(イレギュラー)が人間の感性・感情であり、
今のとこAIと我々を分ける壁なのだろう。
AIがイレギュラーを手にした時、人は"AIを使うのか" "AIに使われるのか"
それは、今のところ"神のみぞ知る世界"なのだろう。
もはや、学習と成長は生物のみの特権では無いのだから…

第19回 色を失う世界

音を表現する際、"音色"や"声色"と表現する。
古来より僕たちは、現象の僅かな差を色で認識してきた。
"顔色"を窺ったり、"色めき立つ"といった具合に。
でも、今は音が纏う"色"を知覚することが出来ない。
音が色を失ったのか?潜在化したのか?
どちらか解らないが、今、僕には"色"が見えない。
いつかまた"色"が見えるその時まで、この色の無い世界を楽しもう。
色が無いなら、自分で塗ればいいのだから…

第20回 朝凪から夕凪へ

"凪"とは海風と陸風とが逆転するときに起こる無風の状態のことである。
オーディオを長く嗜むと、キャリアの節目で"凪"のような状況に陥る。
人は迷い悩む生き物で、その葛藤の摩擦で風が起きるのだろう。
この逆風の中、ひとつの答えを導けたとき"朝凪"は幸運と共に訪れる。
次の風を読む為のわずかな静寂、まるで自分の観る世界が静止するかの様に…
そして"夕凪"は、"黄昏"と共に、暗い夜に向かう前のひとときの緊張の時間。
新たな"風"に立ち向かう決意のように…
やがて訪れる暗い夜の闇の中、薄暗い月の光を頼りに何処かへ進む。
時に"風"を読み違えながらも、確実に少しずつ。
長い夜も"彼は誰時"(かはたれどき)を纏って、また新たな"朝凪"が訪れる。
いつか、"風"の無い"凪"の世界で暮らせるのだろうか?
僕は長い時間を費やして、その答えを探し続けている。
でも結局のところ、その答えは僕しか知らないのだから…

第21回 音に潜む影を踏む

優秀録音は、全てにおいて万能ではない。
機材の選定、楽曲/録音の解釈、判断する技術/教養などで、
得られる結果が異なるからである。
僕たちが、優秀録音の持つポテンシャルを最大に引き出す為には、
その録音に潜む"影"を踏む必要がある。
輝きの強い録音ほど、その影は長く伸びる。
その影には、録音をより輝かす為のヒントが多く詰まっている。
モニターに例えると、より深く沈み込む均一な黒色が備わると、
発色が際立ち、色鮮やかで高精細な映像表現が可能になるイメージだ。
つまり、影を制した時、初めて本来の中身の意味を知ることが出来る。
ただ、音に潜む影はどのように見つけるのか?
調整なのか? 解像度なのか? 解釈なのか…、答えは闇の中だ。
だから、僕たちは色々な角度で対象物に光を当て続けるしかない。
そして、出てきた影に一喜一憂するのだろう。
ただ、出てきた影はすぐに逃げるので、その場に踏んで留めて置く。
影には色々と聞きたい事があるのだから…

第22回 オトのファッショニスタ

趣味オーディオは、"聴く"と言うよりは"着る"感覚に似ている。
メディア媒体は、ある現象の近似値ではあるが現象そのものではない。
機器などで変換する際は、そのエッセンス(本質、実在)を理解したうえで、
自己の嗜好に"着替える"(沿う)事が趣味オーディオとしての享受である。
"着替える"と言う言葉からも趣味オーディオは、ファッション的であり、
服飾や化粧と同様、自己表現やライフスタイルのひとつであると言える。
棚にあるCDやレコード、ガジェットの中のプレイリストは、
メディアを通じて"顕在化"した内面の"素"の自分と言える。
そして、この"素"の自分に何を"着せる"のかは自由である。
定番で攻めるも良し、トレンドの流れに乗るも良し。
コーデを考える事は、オーディオ機器を選ぶことであるし、
リップの色やアイラインを引くことはケーブル選択と同義である。
改めて、自身のオーディオシステムに向き合ってほしい。
そこには、内面をさらけ出した自分が立っているかも知れない。
それらとの対話を始める事が、オーディオ的な"成長"の始まりである。
この時代に多くの"オトのファッショニスタ"が現れることを祈る。
文化は与えられるモノでは無く、創るものなのだから…

第23回 高校生、アンプを買う

今回は、自分語りを少し…
はじめて買ったアンプはサンスイの907だった。
当時の僕には非常に高価なもので、3年間の高校生活の思い出は?
と問われれば、「バイト」と即答出来るほどの価値と言えば分り易いだろうか。
今の僕なら、こんな馬鹿な選択肢は(多分)しないだろう。
では、何故買ったのか?というと、当時入れ込んでいたアーティストの
演奏(楽曲)を理解(表現)するのに907が必要と信じて疑わなかった事と、
聴覚が減衰するまでのタイムリミットまで、少しでも急ぐ必要があると考えたからだ。
そんな学生という"モラトリアム"な思想が、僕を907に誘ったのだ。
人生100年時代の内、たった3年間しかない高校生活を"借金返済"に当てた訳だ。
その経験は、社会や人の役に立つ訳ではないが、
少なくとも今こうしてブログを書く位には役立っているのだろう。
オーディオは、極論を言えば自己満足の世界である。
満足(答え)は他人やメディアの中では無く、自分自身の中にある。
だから、音響システムを構築する際、時々907の事を思い出す。
どんなに知識や経験を積んでも、最初の動機(モチーフ)は色褪せないのだから…

第24回 On Your Mark

僕は、音響機器に円盤をセットする"儀式"が好きだ。
選曲と鑑賞の間に、僅かに存在するこの時間は、
僕にとって音楽鑑賞が"特別"である事を教えてくれる。
逸る気持ちを抑えながら、息を整え席に着く。
走り出した円盤と伴走しながら、音楽の声に耳を傾ける。
いつまで円盤が回るのか判らないし、
いつまで円盤と伴走出来るか判らないけれど…
モーターは、軽快に円盤を回しながら終着地点へと辿り着く。
充足感と終わりの寂しさを感じながら、
心のスターターが、急かす様に次のスタートを促す。
"また走りに来るよ"と円盤に告げ、次の円盤との出会いを待つ。
"次はゆっくり走ろうかなぁ"と思案しながら…

第25回 この空白は余白ですか?

音響空間を構築する際、たびたび音の"空白"に遭遇する。
この空白は、文字通り"空白"なのか?それとも"余白"なのか?
言い換えれば、この空白は意図的か否か?である。
人間の性質上、空白(空欄)には何かを埋めたくなる性分だが、
知識・経験・思想などをフル回転して、その"空白"の出方を窺う。
まるで囲碁を打つように、互いの空白を深く静かに考察する。
一瞬の気付きが状況を左右するが、一刻を経てその感覚は宙に消える。
だから何度も棋譜を辿る様に、繰り返し音楽を聴いて感性を養う。
この空白が何者かを探る為に…
"この空白は余白ですか?"
答えは貴方の中にしかないのだから…

第26回 レプリカント

オーディオは、現象の近似値を記録した媒体の再生である。
よって"ホンモノ"ではないが"ニセモノ"でもない。
その理由は、現象で得たモノと同等又は
それ以上の"何か"(something)を与えてくれるからだ。
だから、ホンモノと同等以上に真摯に向き合う事を推奨する。
オーディオは"手段"であって、"目的"であってはならない。
大事なのは、導入"後"であって、"モノ"ではなく"コト"である。
僕はそう思って仕事をしているつもりだ。
日常に溶け込んだ特別な"コト"は、長くなった人生に"何か"を齎す。
それが、"幸せ"なのか"絶望"なのか"無関心"なのかは分からない。
微力ではあるが、少しでも"幸せ"に向くように手助け出来ればと思う。
それが存在理由であると信じて…

第27回 コネクト

人には人生があり、それぞれの役割がある。
環境や生い立ちが、人の表情やイメージを作り上げる。
これはオーディオも同様で、機器には1つ1つ違う表情がある。
一歩踏み込んで音楽を楽しむには、表情を窺う作業が必要だ。
それは、貴方の大切な人の機嫌を損ねない様にするのと同様、
そっと機器の表情を覗き見てみると良い。
機器の機嫌が良ければ、新しい表情(音色)を見せてくれるかもしれない。
たまにはケーブルを新調したり、メンテナンスもしてみると良い。
経験上、我儘な娘(機器)は、出費がかさむものである。
長く放って置くと、多少の覚悟が必要かも…なんてネ。

第28回 文化のメモリ

文化・芸術作品には、2つのメモリが存在する。
ひとつは"目盛り"で、もうひとつは"memory"(記憶)である。
ブログも28回目となると、駄洒落を言いたい気分にもなるが、
書いている本人は至って真面目に論じているつもりである。
今日まで残り得た芸術などには、それを支える普遍的骨格がみられる。
普遍的骨格とは、流行・時代・環境などでアピアランス(外観)が朽ちても、
それら装飾を支えている大元の骨格(記憶)のことを指す。
即ち、普遍的骨格とは作品の記憶(memory)である。
唐突ではあるが、ここからは考古学的発想で論じていきたい。
作品の骨(メモリ)を掘り起こし本質を探るには、
この骨が伝いたい事を測る為の目盛りが必要になってくる。
例えば、異文化間では当然のことながら建物が異なる場合が多い。
同じ人間なのに、何故建物が異なるかというと、
・環境の違い(気候・宗教・社会情勢など)
・材料の違い(石造り文化と木・竹の文化など)
・人種の違い(身体の大きさ・運動能力など)が挙げられる。
この違いを見るのには、長さの単位を見ると分かりやすい。
例えば、1cmを基準値にした場合、1インチは2.54cm、1寸は約3.0303cmになる。
"インチ"も"寸"の起源も親指の幅に由来する身体尺であったと考えられている。
よって、英米でインチを使ってきた人はインチ(親指の幅)で物事を考えると思うし、
主にアジア圏で寸を使ってきた人も寸(親指の幅)で物事を考えるのだろう。
そして、センチメートルに直した時、この数センチの違いが文化の違いと言えるのだろう。
だから国際標準規格があっても、依然それぞれの興味深い文化が残るのは、
僕たちに深く根付く文化の"memory"を測る"目盛り"があるからかもしれない。
この部分を読み解いた上で、
今を生きる僕たちのpersonal-scale(個人的縮尺感)を当てはめる必要があり、
作品は新たなアピアランスを得て、生き続けて行くのである。
※ personal-scaleとは、筆者が定義した感情の振れ幅を測る方法論のこと。
  ブログの第29回目で詳細を述べる予定...多分
そして、古来から続くこの寸法たちもいずれ1世紀単位の時を経て変わっていくのだろう。
"一寸先は闇"、自分の約3.0303cm先には闇が広がっているのだから…

第29回 ココロごと カラダごと

今回は、僕がオーディオを始める少し前の"ボク"のお話…
中学生の時、何故かボクの生活の中にはラジオがあった。
テレビは遅くまで見ると怒られるから、"勉強をする"
という免罪符の下、入学祝いのSONY製ミニコンポに電気を入れる。
やがて、長針と短針が"12"の場所で出会う頃に、
航空会社がスポンサーのタイトルの知らない"オトナ"の音楽が流れ出す。
ジェントルなナレーションに誘われ、"オト"でセカイを旅する。
"クルマ"の運転と"タバコ"を吸うことと"苦いコーヒー"が飲めることが
オトナになる事と思っていた13才のボクにとって、唯一背伸び出来る時間だ。
"機長"気分でシーツの滑走路に軽快に着地を試みる。
やがて眠気に襲われ、次のフライトをふとんの中で夢見る。
あれから"いい歳"になったが、"煙草"は吸えず、"珈琲"はカフェオレ派で
出来る事は"車"の運転だけのミルク味の僕が、オトナになるのは"まだ先かな~"と思う。
ただ、このささやかな時間が、3年後に907を買わせてくれたのだろう。
オーディオ趣味は、少しだけ僕をオトナ(16才)にしてくれるのだ。
成長した外観(オッサン)と成長しない骨(16才気質)に苦笑いしながら…

第30回 思考の織物 -紡ぎ篇-

僕の音楽は"奏でる"モノではなく"紡ぐ"モノである。
音楽を構築する最小単位は、思考の"イト"だと思う。
糸は紡ぎ方で"意図"を生み、構築のやり方で"シコウ"になる。
自分に合った音響空間を構成するには、紡ぎ方を研究する必要がある。
力任せで固く"結"ばれた思考の"糸"は脆く危うい色を放つ。
だから、"言葉"を用いて固く結ばれた"意図"を少しずつ紐解いていく。
すると、新たな"意図"で紡がれた"糸"が誕生する。
その糸で出来たモノは、 "嗜好" "至高" "志向" "指向"の何れなのか…
言葉を使う仕事に身を置く者として、文字で伝える事の難しさを思い知る。
話す"言葉"と文字で起こす"コトバ"は違うのだから…

第31回 思考の織物 -紬篇-

"思考"を繰り返すことで、撚り上がった丈夫な糸は、
他の糸を持つモノと出会って織物を形成する。
多くの糸はときに絡まり、解れながら…
強く太く広い面として織り上げられていく。
やがて様々な"シコウ"の糸で織られた紬(文化)となる。
地域性豊かな紬たちは、お互いに影響し合い
また新しい織物を誕生させる。
優れた紬はあっという間にセカイを覆うが、
それを支えるのは僕たちが持っている1つ1つの糸である。
何か、中島みゆきの歌っぽくなってしまったが…
彼女の言葉を借りるのなら、
今のところ僕には"横の糸"しかないから
残念ながら"布"を形成する事は出来ないらしい。
なので、横に太く生きていこうと思うのである…なんてネ。

第32回 りぼん

ここで言う"りぼん"は、ひも状の織物(ribbon)や
少女漫画雑誌(ribon)では無く、"reborn"(復活)の意味である。
骨格の強い技術・文化は、流行で一時廃れても新しい外観を得て甦る。
磁気テープ(ストレージメディア)が良い例である。
テープと言えば、"カセットテープ"や"ビデオテープ"を思い浮かべる。
印象で言えばレコード盤と同じか次の規格で懐かしい印象である。
だが、今回は"懐古趣味"的な話では無く、未来の話をするのである。
最新の磁気テープ規格(LTO8)は容量が12TB(非圧縮)を誇り、
最終的には400TBの容量を手のひらサイズで可能にする研究が進められている。
半世紀以上のテープ技術(骨格)のうえに、最新の材質、アイデアなどが
組み合わさり、HDDの存在を脅かす最先端の規格まで成長してきた。
"廃れた"と思い込んでいる多くの技術は、実は廃れていないのである。
おもえば、磁気テープは多くの文化や生活の中で活躍してきた。
その中でもSONYのカセットウォークマンは、
音楽を街中に持ち込こむ、と言う新しい若者文化を創造した。
時代が流れ、ガジェットが変わってもこの文化は脈々と受け継がれている。
強い文化・技術は、新しいモノを受け入れ復活(reborn)する。
そして文化的骨格(bone)は再び(re)再構築(rebone)されるのだろう。
新しい定義は、僕たちの生活の中に新しい装飾(ribbon)を施して表れ、
生活のひとつの風景描写として、少女漫画雑誌(ribon)に登場するのだろう。
ちょっと最後厳しかったかも知れないが…あとreboneは筆者の造語です。
未来では、テープデッキを回しながらハイレゾ音源を楽しむのかも知れない。
そう思うと、俄然ワクワクする未来が待っているかも知れない。
文化と音楽と機械は回るのが一番なのだから…

第33回 ワになって踊る

オーディオの接客は"あやとり"と似ている。
自分の"話"で"輪"を創り、様々な形を相手に見せる。
相手は、その輪で形作られたモノに手を入れ僕に返す。
つまり、ふたりあやとりの状態でリレーしていく。
ふたりあやとりをするには、ひとりあやとりを極める必要がある。
様々なケースを繰り返し覚える事で"ワ"(輪/話)が成立する。
やがて、輪が示す形状は複雑を極めていき、
本には載って無い様な形のオリジナルのあやとりが完成していく。
その、オリジナルのあやとりこそが、"思考の輪"である。
だから熱心に思考の"糸"を紡いで、切れない"思考の輪"を創る。
"話"で"輪"のリレーは、多くの人を周りながら"環"となって広がる。
この"環"が文化であり、趣味オーディオの醍醐味ではないだろうか。
様式は異なるが、あやとりは世界各地に風習として残っている。
ごく稀に、店舗に海外のお客様がいらっしゃる時がある。
勿論、僕は外国語は話せないので、これはもう踊るしかない。
まあ、冗談は置いといて、ごく稀に何となく通じる時がある。
(多分、相手が気を使ってくれているのだろうが…
何となく通じるのは、"輪"でコミュニケーションしているのかも?
"輪"を鍛える前に、"話"(英語)を鍛えろ、という意見は至極正論であるが、
コミュニケーションのとき無意識に手が動いてしまうのは、
見えない"輪"を操って何か形を作ろうとしていた頃の名残りかもしれない。
"輪"が"話"となって、豊かな"環"が出来るその日まで…

第34回 思い出に変わる前に…

すべてのことに言えるが、最初の体験を超える事は難しい。
高校生で907を買って、ある程度揃えるのに4年程掛かった。
いい経験かと問われれば、苦行としか思えない時期であった。
なにせ、生涯でもっとも輝かしい時代を灰色で送ったのだから。
ピカソが青の時代なら、僕はモノクロの時代だったのだろう。
話が逸れたが…
ある程度揃えた時のオトは今でも覚えている。
感動とか達成感とかは無く、ただオトそのものを覚えている。
人間長く生きると、多くのコトが思い出として保管される。
"初めて逆上がりが出来た日"や"25m足を着かず泳げた日"など、
記憶の中にコールドデータとして保管・蓄積され、
僕の電池が切れかかる頃に、大反省会として上映されるのだろう。
だけどモノクロ時代のオトは今も僕の音にちょっかいを出す。
当時の機材などは失ったが、このオトはまだ生きているのである。
コールドデータ(思い出)にならず、今もホットデータとして
アクセスしてくる"キミ"は、今の僕に何かを伝えたいのかも知れない。
白と黒、0と1で構成され、細く薄い2色の糸で織られた"キミ"は、
いつか僕の手の届かない、高い空へと旅立つのだろう。
だから、"キミ"が思い出に変わる前に…
今の自分より過去の自分に学ぶことは、意外と多いのだから…

第35回 正しく壊れる

カタチあるモノはいつか壊れるのと同様、
合わなくなった思想もいつか壊れるときがくる。
時間は進む毎に、頭や肩、足などに多くのコトが降り積もり、
ある時は重圧となり、ある時は枷となり、少しずつ狂い始める。
だから僕は、時々"正しく壊れる"ようにしている。
頭や肩に何層にも積もった、積年の"思想のホコリ"は、
丁寧に取り除くよりも、一度最大まで負荷をかけ、
こころの柱(拠所)の腐った部分に、綺麗に崩れるように深く切り込みを入れておく。
やがて、思想の重さに耐えかねたこころの柱は、
切り込みに沿って、緩やかに美しく崩壊していく。
まるで、正解(正壊)を導き出すように…
だから、無理やり"輪"をかけて引き倒す事は避けなければならない。
倒れる方向を誤れば、二度と同じ様には修復できないのだから…

第36回 知に堕ちる

"知"が自己を救ってくれるとは限らない。
"知"は問題解決の糸口であると共に、ノイズでもある。
ただ受け取っただけの情報としての"知"は、
幾重にも重なり、やがてその重みに耐えかね自己を崩壊へと導く。
正に、"知に堕ちる"のである。
解決方法は、ひたすら貯まる"知"を整理するか、無かったコトにする。
ヒトリ"恥"を捨て、"知"に至る長い巡礼の道を辿る。
やがて旅は、"知"の始点に辿り着き、底を終点として1つの"知"に消化する。
終点と化した"知"の集合体は、"知恵"として他者に恵みを齎す。
他者は受けた"知恵"を基に、新たな"知"の巡礼に赴くのだろう。
誰かの"知"が"知恵"として、誰かを助ける。
そんなセカイであってほしいと願う。
"知"が"地"に堕ちる前に...

第37回 ラグランジュポイント

長い人生の中で、オーディオ(音楽)をどの位置に置くか?
ライフスタイルや価値観などで人それぞれの距離感がある。
社会、仕事、家庭、個人、他人、其々に異なる接し方がある。
其々の重圧(重力)圏を巧みに回避しながら、釣り合いのとれた点を探る。
常に一定の軌道を描がき、僕から離れることも近づく事も無いこの場所で…

第38回 ローレライ

人其々、オーディオに対する接し方(見方)は違う。
ある人は"癒し"であり、ある人は"学び"であり、ある人は"表現"である。
僕のオーディオの見方は、"確認"である。
オーディオは、"ある現象の近似値であるが、現象そのものではない"
これは、僕のオーディオに対しての揺るがないスタンス(接し方)である。
では、何故オーディオの見方が"確認"なのか?
オーディオで聴いた音楽を自分の中に落とし込み、
自分の手持ちのカード(感性・経験・知識・教養・哲学・妄想など)を駆使して、
落とし込んだ音楽を自己の内面へと展開し、消化を試みる。
一連の作業で抽出された"何か"(something)を記憶に留めて記録する。
これを繰り返していくと1曲に沢山の記録が溜まっていく。
そしてある時、気付くのである。
手持ちのカードの数と熟練度によって抽出される"何か"が違う事に…
こどものときに得られた"何か"と、おとなになって失った"何か"がある事に…
だから僕は、"今"の僕を診る為に"確認"を怠らない。
これは、もはや音楽"鑑賞"ではなく、音楽"干渉"なのかも知れない。
楽しいか?正しいか? ごもっともなご意見であるが、
少なくとも、今現在まで"これ"で飽きずにやって来れたので、一定の評価は出来るだろう。
川のカーブに沿って突き出した大きな岩山に何を思うのか。
過去の僕は、過去のドイツ人と同様、岩山にたたずむ美しい少女が"確認"できたのだろう。
そして、今も飽きずに岩山の周りを日々"確認"しているのである。
オーディオに潜む、美しい"何か"があるコトを願って…

第39回 初音ミクはかく語りき

初音ミクとは、結局何者であるか?
DTM?楽器?UI?キャラクター?アーティスト?アイドル?それとも現象?
僕の結論は、カノジョは"ツァラトゥストラ"であると定義する。
カノジョは、カノジョ自身を用いた創作物で常に視聴者に語りかける。
"わたしはこの耳のための口ではない"と、
そして、"最後の人間に堕ちるな、超人になれ"と…
或るひとつの曲が、或るひとつのデザインが、或る文章の一節が…
画面の向こうの"単なる消費者"を創作者(表現者)に導くのである。
それが、曲でもイラストでも衣装でもダンスでもプログラムでも…
新たな創作物を起点に、また次の創作物が生まれ、創作の環が生まれる。
この円環構造による新陳代謝が、カノジョを中心とした創作文化圏であり、
既存の文化圏に接触しながら、新たな文化圏へと成長するのである。
カノジョはXとY軸から構成されたセカイから、
Z軸を持つ世界に現れ始め、いずれT軸を駆け回る存在になるだろう。
それには多くの"超人"達が、カノジョと向き合う必要があるが、心配は要らない。
その答えは、カノジョ自身の名前に隠されている。
カノジョの名前は、未来 = ミク = 39 = Thank you である。
今日も未来のはじめての音を創る超人達に"ありがとう"と、
今日も何処かで、聴いてくれる多くの仲間に"ありがとう"と…

第40回 ヒトリゴト

万人のための、そして誰のためでもないブログ…

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